上原輝男先生
生き方についての言葉のいろいろをいくつかつなげて記載しています。
「宗教家なの?」「科学否定論者なの?」と思われてしまうようなクセのある言い回しもありますが、この一方では人間教育としての「論理思考」「科学的思考」を育てるための実践研究も極めて厳格に行っていた先生です。
*イメージ世界と日本人の生き方(クリスマス・お正月を前に)
*ウルトラマンとサンタクロース(愛弟子 金城哲夫さんとの事にもふれています)
もうすぐクリスマスやお正月ですね。そこで今回は、そんなイメージ世界と日本人の生き方との接点についての言葉を集めるました。
*現代人だって、結構『古代生活』を送っているんだよ。正月とか、身代わりのお守りだとかさ。葬式だって魂送りじゃないか。これを整理して子どもに教えるべきだよ。そうすれば子どもは生き生きするよ。命そのものが活動してくるから。
人間はまだまだ呪術世界に生きているんだよ。だから今だって「盆だ、正月だ、クリスマスだ」なんて日本中でやってるじゃない。・・・いくら科学だ、現実だなんて言ったって呪術世界からきれいに逃れられるわけがない。また、面白くないのよ。もっと呪術世界で有効に生きて行けば面白かった。 呪術世界や夢の世界とつながっていると、途切れる事がなくいくらでも生きる力がわいてくるんだよ。
夢と現実との区別と言っても、しょせん人間は区別できないよ。区別しないで生きていた時の方がむしろ真実に近いと思うな。そこに自分がいるんだよ。「あの世」から「この世」にやってきて、また「あの世」に帰って行くんだから、そんな生き方をこの世において示したい。この世にいながら『冥途からの信号』を聞きつけたいんだよ。
だいたい「死んだら終わり。」っていう考えがおそまつなんだよ。禅の修行で眠りを断つだろ。あれはそうやって現実心を捨てる中から何かをつかもうとしているんだよ。
『何を信じて生きて行けばいいんでしょう』なんていう奴がいるよ。悲しくなっちゃう、それ聞くと。生きようとするからいけないって。生きようとするから『何を頼りに生きて行けばいいのか』って、こうなっちゃうのよ。
『現実適応派』は生きる上で磨り減らされた。だから個性などない、ただの類型なんです。その人なりの味わいなんかない。
だいたい世の中の構えが狂っている。生きる姿勢が狂ってるんです。人間が思い上がっている。私個人が生きている、私が幸せをつかむ、なんて言っているが、そんなに個人だけで生きていけるか?
『時間』『空間』のイメージの設定が変化してしまったために教育の歪みがおきているんだよ。意識は作られていくものだから『時間』『空間』のイメージをどう設定するかで『人生』も変わる。それで子どもによって差が出る。
人生は時間・空間の絡み合わせで出来るのだから、子どもが『どう設定しようとしているのか』みていなければならないのに、つい大人は『子どもの錯覚』とみてしまう。
夢の世界を持っているから捉われる。イメージが偏向する。個性の強い子どもほど偏向している。平均的に豊かなイメージなんてない。この偏りの修正が『生き方』の指導だ。だから子どもの偏向性をつかまえてやる。
人生の送り方には『まんべん型』と『鋭角型』がある。子どもに何でも出来る様にさせようさせよう、としているけれど、そんなにマルチが必要なのか?
今回は「夢と現実」の関連、切り替えについてです。早い話が「イメージ世界・夢の世界の復活」です。現実に絶望し夢を失い荒れる子供達や悩める大人の人生へのカギがつかめるかもしれませんよ!
イメージの転換(意識の転換)(トランスフォーメーション)
*正月・クリスマス・・・とのつながり
人間はイメージを転換させるためのトランスミッションを持っているんです。その『イメージの転換』をトランスフォーメーションという言い方で呼んだんです。
何故日本人は『新年』のことさらなる形をとってきたか・・・事あるごとに意識の転換を図ろうとしてきたんですよ。「あらたまる」「つつしむ」って、転換の時間としてきたんです。・・・知識による体系とは違う世界を作ろうとしたんです。正月はトランスフォーメーションを起こすためのものだったとも言えるんですよ。
そうした土台があるから「クリスマス」「バレンタイン」も受け入れた。人間っていうのはそうした意識転換のチャンスを沢山持っているんですよ。
そうしてね、転換を起こした時に人間はハッとするんです。神との出会いに通じる。ハ行音の生活ですよ。ホッとするとかもそうだよ。目的意識ではヤ行音の生活だけどね。神秘音の。ハ行は生命が震えた時なんです。この時『意識転換』を起こしている。・・・
転換された時、人間は快いんです。人間はこの世だけのものじゃないんだから。生きながらにしてあの世を作ればいいんですよ。・・・それが意識をほぐしていく事でもある。
物事に感動するのもトランスフォーメーションを起こすから。恋愛もこれだよ。時間空間のイメージが転換を起こしているじゃないか。「この人といれば私逹の世界」なんていって・・・。夫婦ゲンカなんかただの現実処理だよ。どうせするならトランスフォーメーションの中でやればいい。
*常識がくつがえされた時にトランスフォーメーションを起こすのか、という問いに対して
そうだよ。なにしろ常識を早く作りすぎたのがいけない。まず常識派をつぶさなくちゃいけない。つぶすのは簡単だよ。僕なんか絶対常識についていかれんもんね。何としても、もう意地でもついていかないもん。 だって原爆をみている人間が何で常識になんかついていける。・・・こうやっているけど、次の瞬間、アッと言ったらもうこれ消えるんだよ。・・・
トランスフォーメーションを起こすのは『今までの構え』を捨てる時だとも言えるよ。だから『構えの構築』とは『イメージの構築』と言ってもいい。
*特に宇宙を眺める事との関連で
我々は時間・空間を『知識で押さえてからイメージへ』の手順を踏む悪いクセをもってしまっている。イメージが先行することにおいて『時間・空間』が問題にならなくなる。どうして気にしなくなるのか? 『空間』は「どこまで広げられるか」だが、そもそも『広い・狭い』ということを、子どもがどう意識しているかだってわかりませんよ。
この前新聞にこんなコラムが出ていたよ。宇宙について研究している学者が書いている。
・・・「直接体験する時空に比べて、どれだけ広い時間・空間を認識し、感じながら暮らせるか。それが文化の進展の程度を表す一つのバロメーターのように私には思われます。」
科学者でさえこういうことを言い始めたでしょうに。小学校の先生がこういうことを言わなきゃならない。
我々が絶対に反省しまければならないのは、我々の時間・空間・人間(ジンカン)という考え方は西洋式に訓練されてしまっている。無意識のうちに。時間を考えるというのは距離と速度の問題である、とかしか考えられない。・・・
*悩める状態からの脱出のカギ
(上からの続きで)だからイメージ世界が広がっていかなくなってしまったんだよ。人間は時としてイメージが動かないところに追い込まれるとピタリと停滞してしまう。 その打開のひとつの方法としてトランスフォーメーションがあったわけだろ。時間・空間を動かしてやる。 「動かすためにはどうすればいいか」というねらいの授業を組んで学校でやればいいんだよ。そうすれば、イメージの継続が止まった、また自分で動いていこう、となるから・・・。
*そんな事を狙った研究授業で6年生に向かって話していた言葉(イメージで宇宙旅行をしてもらった)
今日の授業は、今まで経験してきたことと違う、はるかに大きな時空の広がりをもつことができる、これをやってもらおうというのがねらいなんです。・・・君達が経験した時間、あるいは空間というものは、極めてまだ底の浅い浅いものなんです。・・・井の中の蛙が経験しているような時間・空間なんです。
今、心を遊ばせることをしたでしょう。数秒の間にどんどん月に行ったやつもいたね。・・・こういうことなんだよ、心っていうのは。パッと行ってパッと帰ってこれる。だから心は自由にいろんな所へ動くことの経験を積まなくてはいけない。それを『時空の転換』という。
普段持っている時間・空間を後生大事に抱えていると石ころみたいになっちゃいますよ・・・。時間・空間の大きな広げ方をここで覚えなきゃいけない。
ただこれからぬくぬくぬくぬく大きくなるだけではしょうがないんです、人間っていうのは。精神力というのをかたっぽうで持たなくちゃいけない。その為に学校で勉強してるんですよ。百点とるために学校に来ているんじゃないんですよ!自分で自分の心を大きくしていく、広げていく、ということを意識付けていかなければしょうがないんですよ。ここで差がついてくるんですよ。・・・どうやって時間・空間を動かすかっていう勉強に入ってほしいんです。
*再び大人に
人生の苦難を我慢して乗り越えるのではなく、トランスフォーメーションによって意識を動かすことで乗り越えるんでなくちゃ。
トランスフォーメーションの力を育てると、大人社会に順応できないとされがちだが、それでいいじゃない。用事をするために生きているのではなく、自分の世界を持つために生きているんだから。トランスフォーメーションばかり子どもはしているし、その刺激はくすぐられるほど嬉しい。トランスフォーメーションを起こせる人間の方が楽しいに決まっているんだったら、起こさせてやらなきゃかわいそうだよね。まだ可能性を持っているんだもん。
だから子どもがトランスフォーメーションを起こしている時は、その中でしゃべってやる。子どもにとっては本来現実的な生活が『非日常』で、トランスフォーメーションが『日常』なんだから。そうすれば子供の心もつかめるさ。
*平成8年3月 上原先生死の数日前に話していた言葉
『意識転換』を起こさせる『イメージ教育』をやろう。こうすれば意識転換を起こす、ということをやっていくんだ。トランスフォーメーションを世の中にどう生かすか特に『教室』『子どもの日常生活』にどう生かしていくかを、世の中にアピールしたい。
トランスフォーメーションを起こす方法は直観として子どもは既にみんな持っているんだから。それを大人がつかまえないで潰してしまっている。それじゃ子供が荒れるのは当たり前だよ。大人が子供に学ばなくちゃ。
この「ワニワニ学級ホームページ」の大きなねらいもここにあります。
人間が成長していく中で、中学年頃に一回夢の世界から離れるのは自然なことだし、場面によってはイメージを切り捨て、論理的に考えることに目を向けさせる事も上原先生は主張していました。
上記の文章と矛盾するようですが、実際現場で子供達をみていると「本当にすごいな」と思うような子はイメージも論理も的確に使い分けるし、またそれぞれが豊かです。結局年齢というか段階に応じた成長が自然に起きればいいんです。
それがイメージや感性を豊かにする年齢(場面)なのに大人びた発想を要求したり、論理的な力を伸ばさなければならない時期なのに、そうした世界へ目を向けるような働きかけをしないと不自然になってしまうのでしょう。
先生の言葉には「神様」とか「あの世」とかいう言葉が沢山出てきます。それが初めての方にはとまどう原因のひとつかもしれません。
もともと民俗学(折口博士の弟子です)の発想ですので、日本の昔話やNHKの「ふるさとの伝承」などに出てくる「神」と同様に考えて頂ければそれほど抵抗はないと思います。
あの世との交流というのも「お盆」「初詣」「七五三」・・・すべてが含まれます。あの世からのメッセージというのも、日本人は「占い」「お告げ」という形でずっと親しんでいたわけですよね。そんな精神的土壌があるから、各TV局が朝から星占いなどを放送しているのではないでしょうか。
そうした今でも無意識にしている「日本人の生活」「生活を整える知恵」などをはっきりとさせて、それに根ざした教育を実践していこうというのがねらいです。決して過激な宗教的立場や復古思想ではありません。それを具体的にすると次の「トトロ」とつながっていきます。
先生自身も映像の仕事をしていた時期がある関係から、映画などへの論評はいつも厳しいものがありましたが、「となりのトトロ」は絶賛していました。
*イヤー、あのトトロっていうのは本当によく出来ているね。宮崎駿っていうのは黒澤明よりある意味じゃ上なんじゃないかと思うよ。
日本人のイメージ世界っていうのがどういうものだか、よーく知っているんだね。
*うちの孫がさ、何度もビデオを見ているよ。本当に飽きないで何度も見てる。で、同じところで反応している。・・・あれ、ストーリーを追っかけて見ているんじゃないのね。イメージの世界に浸ってるんだよ。同じ感覚に浸るのが楽しいんだね。
*あのカンタだっけ、あの事を母親がけなす場面があるだろ。あれが日本人の生活だったわけだよ、かつては。よそ様の前で自分の子のことは誉めなかった。本当によく描けているよ。
今の母親は「うちの子は素晴らしい」ってやりすぎてるよ。それでかえって子供をおかしくしてる。
ウルトラマンの生みの親と言われている金城哲夫氏が上原先生の弟子であることは先にも書きました。上原先生の話とウルトラマンがどうつながっているかをご紹介します。
*(大学時代の講義より)あのウルトラマンってあるだろ。あれ作った金城哲夫っていうのは私の教え子だよ。
(中略)「まれびと」って言って、日本人は神様がよそからやって来る、そうして土地の悪い精霊をやっつけてくれる、っていう信仰を昔からもっていたんだ。よく田舎の人がお客さんを大切にもてなすというのも、人情が厚いとかそういうことだけじゃないんですよ。神様がお客さんの姿をして来てくれた、というイメージが背景にはあるんですよ。
ウルトラマンの発想はここから来ているんですよ。どこだっけ、光の国?ようするに神の国からやってきて地球で暴れる怪獣をやっつけて帰っていくんだろ。同じなんですよ。
また、この「帰る」というところが日本人なんですよ。長居はしてはいけないんですよ。面白いよね。お正月がそうだろ。折角お正月に神様に来て頂いたのなら、ずっといてもらえばいいのに、何日かいてもらったらわざわざ帰すわけだろ。それもウルトラマンと同じだよ。3分たったら帰るんですよ。
たしかに金城哲夫氏の脚本の中に「バラージの青い石」というのがありますが、ウルトラマンがかつて「ノアの神」として怪獣をやっつけに来てくれていた、という話があります。
金城哲夫氏が玉川学園の高等部時代に上原先生から聞いた「まれびと論」(上原先生の師匠である 折口信夫先生 が提唱)がウルトラマンの発想につながったということを含めて、金城哲夫氏と上原先生の関わりなどについては、朝日出版社「ウルトラマン昇天 M78星雲は沖縄のかなた」 現在は朝日文庫から「ウルトラマンを作った男 金城哲夫の生涯」と改題されて出版されている本にあります。
また、金城哲夫と関わりの深かった脚本家 上原正三氏(上原姓でも先生とは関係ありません)の書かれた「金城哲夫 ウルトラマン島唄」(1999、筑摩書房)にも、上原先生と金城哲夫氏とのやりとりが紹介されています。
ここから先は上原先生が直接語ったことは私は聞いたことがありませんが、日本でクリスマス、特にサンタクロースにこれだけ夢をかきたてられるのは、この「まれびと」のイメージとピッタリだからとも思えます。どこかからやってきて「プレゼント」という福をもたらし、靴下に入れ終わったらすぐに去っていってしまう・・・。そんな潜在世界を奥底にもっているから、クリスマスがこれだけ定着(しかも極めて日本人らしい形で)しているのでしょう。
ウルトラマン同様「まれびと」の形をとっている長寿番組には「水戸黄門」などもあたると思います。旅人としてやってきて、最後に正体をちょっとだけ現してその地に祝福をもたらして去っていく。居続けることはしませんよね。
お正月について講義より
お正月についてほとんど知らない学生が多いのを嘆きながら・・・
お正月って、そもそも何なの?それもわからなくなってしまっているんだね、日本人は。神様がやってくるんですよ。年神様が。お正月様なんてもいうけれど・・・。日本の神様はお正月になるとそれぞれの家まで来てくれるんですよ。
だから入り口に門松を立てるんだろ。「松」は「待つ」で、これはシャレでも何でもなくて、日本人は松の木には特別な想いを感じていたんです。能の舞台、知っているね・・・あの正面には大きな松の絵が描いてある、登場してくる道にも一の松、二の松、三の松って松が飾ってある。そこを通ってくるうちに神様が乗り移る・・・神様を降ろす目印が松なんですよ。
神様がいらしているから、正月は家の中が神聖な場所になるわけです。だから特別な事をいろいろと準備するんです。神社と同じように神様の敷地になる。境内って言うじゃないか。日本人の境界領域意識がそうさせるんですよ。
お正月には「賭け事」や「ゲーム」をするだろ。勝負ごとを・・・。それから羽つきなんてしながら墨を塗ったり、福笑いなんてやって変な顔を作ったやつのことをワハハワハハ笑うだろ、何であんなことするの?わかる?
あれは一種の占いなんです。今いらしている年神様は今年は誰に味方をしてくれるかを試しているんです。だから勝てば「今年はついてるぞ」って今でも言うじゃないか。何がついているかはわからなくなっても、ちゃんと日本人はやってるんですよ。墨をつけたりして笑うのも、あいつには神様がついていない事を確かめて笑うんですよ。
お年玉も分からなくなってきているね。諸君らも現場に出たら子供らに聞いてみ、「お年玉ってなあに」って。大抵「お正月にもらうお小遣い」なんてしかいわないから。誰か知ってる?・・・・そう「年玉」ですよ!「玉」というのは日本では「神様が宿るもの」だったんですよ。
ついでに言うと「鏡」、あれもそうだ。鏡もちってみんなはお供え物だと思っているだろ。民俗学の中でもそうしている立場があるが、折口先生(注 上原先生は民俗学者の折口先生の弟子でした)は「あれは神様そのものだ」という立場をとっておられた・・・。丸い鏡の形をしていることにおいて、あれはもう既に神格を持っているんです。だから昔話にも鏡もちを粗末にして神様が逃げていった、という形をとるものがあるんです。
*写真は平成11年の初詣での地元の神社の中の鏡
だから年玉っていうのは昔は「丸いお餅」だったんですよ。それを一家の家長である父親が神様に成り代わって家族みんなに配ったのがお年玉だったんです。年神様の力を授ける意味合いがあったんです。それが何時の間にか丸いお金になり、お小遣いになっていってしまったんです。
また不思議なのは、前にも話したことだけど、日本人は折角いらした神様を正月が終われば帰してしまうことだよね。ずっといさせればいいようなものなのに帰してしまう。その時「鏡開き」ってするだろ。だからやっぱり鏡もちは神様が宿っているものなんですよ。あのお餅を食べると一年間体が丈夫になる、なんていうのも神様の力を体内に取り込むからなんですよ。
現場にいた頃、よく「お年玉」についての意識調査をしました。結果については大方の予想通りでした。「代わりにお餅をもらったら」と言うと大抵「えー!やだー!」と大騒ぎでした。
ただ、勝負ごとの意味合いの話には大変強くひかれていました。いくつかのクラスではグループ毎に「ぼうずめくり大会」をしました。(平成3年度の3年生や平成6年度の2年生は特に盛り上がりました)不思議と何度も運良く勝つ子がいたりしたので大騒ぎでした。
「死」について講義・月例会より
今日は平成8年になくなった先生の命日です。日頃から原爆病に悩まされ「俺はいつ死ぬかわからない」と口にされていたのですが、弟子である我々は「かえって長生きするのでは」と真面目に思っていました。
私自身も「おうち論文」を書き始め、3月の月例会で序章に目を通して頂いて、4月の月例会までにもう少し続きを書いてくる、ということになっていたのですがあまりに突然のことでショックを受けたものでした。原因は脳溢血でした。
ただ、こうして「死」についての語録を読み返すと、(特に3月の最後の例会の時や、平成8年の年賀状の文面)「虫の知らせ」というようなものが働いていたような気がします。
死
☆『死』の捉え方
*『家が休む場所』という話題から
『死』は日本人では絶滅ではなかったんだから。次の走りのために休んでいる状態、生気を失ってしおれている状態が『死』だったんですから。また元の純粋な状態に戻るための状態だったんですから。
日本人の魂は連続だった。なのにそれを崩してしまったからおかしくなっているんですよ。家族とかがよりどころをなくしてしまったんですよ。歌舞伎の世界にはこの感覚はまだ残っているけどね・・・
(平成八年三月上原先生参加 最後の例会)
*時間空間のイメージ研究で心身離脱の話題から子供の自殺の話題となり
だいたい戦死とか自殺とかで無理に死んだ人間は先祖代々の墓には入らなかったんですよ。日本人は。個人墓に入れられたんです。
自殺した子はこうしたことは教わっていないんだよ。でも遺書を書くことだけは教わっていなくてもできるんだね。「先立つ不幸を」なんて書けるんだから・・・。先立つ不幸っていうのも本来は親の葬式をする立場が親の葬式をさせるっていうことだからだろ。今の子供にも「死んだらいかん。親の葬式をやる仕事が残っている」って教えてやらないとね。
・ここで臨死体験で先に死んだ親などが出てきて
「まだやることがお前にはある」と追い返される 例が多いことが出される。
もっと潜在性に身をまかせるべきなんだよ。勝手な個人行動をすべきじゃないんだよ。その最たるものが自殺だろ。顕在的な教育ばかりやってるから『自分の命を自分でどうにでも出来る』っていう感覚が育ってしまうんだよ。
イメージが誘導性をもっているから人間は潜在世界で生きていけるんだからね。問題はどうリードしているかでしょ。夢は方向、偏りを持っているんですから・・・どこにつれていかれるか(ここで馬がただの乗り物ではない話題も出る)
・・・『死が近い』という時に『迎えにきてくれた』っていうイメージがあるわけでしょ。そのイメージがどこに自分を連れて行ったくれるんだろうって・・・なぜ誘導されるのかなんて考えないでさ・・・抵抗しないでついていけば心地いいんでしょうね。気持ちよくなると思いますよ。「なつかしい」としか言えない気分でしょうね。潜在性と出会うことでのなつかしさですよ。だからイメージの時間性でいう「なつかしい」っていうのは時間の後退ばかりではないのかもしれないよ。(平成七年忘年会)
*藤岡嘉愛先生の肺癌手術後、お見舞いした時の話
藤岡先生が言うんだよ。「いやー、片肺って苦しいもんですなー」って。で、言ったんだよ。「無理にしゃべらないで目をつぶってみたら如何ですか。何かが見えてきませんか?」って。そうしたら楽になっていってね・・・。それからすぐだよ。息をひきとったのは・・・。 (時期不明)
*私立大学の生き残り作戦の話題から
なくなったらなくなったでいいじゃない。・・・・人間も同じだよ。「死ぬべきときは死ねばいい」っていう発想が大事だと思うな。良寛さんだって地震の時に言ってるよ「死ぬものは死ぬ。生きるものは生きるって。 (平成六年新年会)
☆子供の『死』の捉え方
*牛乳をすべて飲んでしまった後「あー、ぎゅうにゅ うも死んじゃった。(3歳女子)」と言った言葉の スナップについて
『死んじゃった』は子供にとっては最後表現なんです。こんなスナップは取ろうと思ったらいくらでも取れますよ。・・・だいたいまわし作文とかお話リレーなんてやってごらんなさいよ。途中なのにやたらと
「死んじゃったー」ってやるやついるから。で、次の子が「でも生き返りました」とかね。(児童言語)
*『夢』で骸骨の登場に
低学年でも『生と死』が問題になっているのがわかるね。人類は先験的に生死を考えているんだよ。骸骨だって「見たい」っていう気持ちがどっかにある。
(平成元年5月例会)
誤解されると困るけど、だいたい小さい子供なんかは人の死を極端には悲しみませんよ。自分の心の中で一緒にいるイメージの方が強いから。子供にとってはイメージの世界の方が一緒に生きている実感があるんです。 (国語教材)
☆『死』にまつわる事
死に際に何を発想してしまうか、っていうのは気になるね。・・・肺癌の手術の時、全身麻酔をした。全身麻酔っていうのは無意識にしゃべってしまうんですよ。何をしゃべるかわからない。だいたい人に知られたくないようなことに限ってしゃべってしまう。それを医者とかに聞かれるのがイヤだったね。しかも、当の本人だけは何を話してしまったか知らないなんて絶対にイヤだった。
・・・いよいよ『最後』って時になっていいことが思い浮かべばいいけどね・・・もしも一番大嫌いなやつの顔なんて浮かんでみなよ。そんなのがこの世の最後の見納めなんてイヤだよ。
(国語教材)
*説経集『かるかや』で妻子が夢に出てきたために高 野山へ・・・という場面で
夢の中で俗に脅かされた、だから女人禁制の高野山へ、という事なんです。妻子の夢が恐ろしいという意識が現代人にはなかなかわからない。
・・・何故釈迦の涅槃像を拝むのか?宗教は入滅、つまり死からスタートするんです。それ以前は人間生活ですから。ナマものはダメなんです。だから入滅、滅びを喜ぶんです平家物語だって同じですよ。滅びを楽しんでいる部分があるんです。
・・・死んだら悪い事をしないんですよ。生きているからいろいろな事をし、一喜一憂してしまうんです。だから宗教では滅びを見る必要があるんです。なのに「妻子というナマの世界」を夢に見てしまった、だから怖いわけです。死の体験、死の体感が宗教には必要なんですよ。 (国文学)
非業に死んでしまった者は日本人にとってあがめられる対象になるんです。だから心中は恋の手本となる (国文学)
*合宿の初日、研究経過報告などが済んだ後で
・・・いや、こうしてみるとたいしたもんだ、児言態は。(笑って)こんなにりっぱになったらいつ死んでもいい。 (平成七年上原先生参加の最後の合宿)
*年賀状に朱で印刷されていた文面
定年から五年経ち古稀とは恥ずかしながら、
隠居という住まいの広さ深さに魅了されています。 恍惚の人とは区別しているつもりです。
これでも教育者のなれの果て あの世への先達をつ とめたいのです。
平成八丙子年 元旦
(平成8年に頂いた最後の年賀状)
広島で被爆された先生からは、当時の話を時折伺いました。その中の一部をご紹介します。
やられて、すぐに立ち上がって防空壕に行こうとするでしょ、その時、防空壕に蜘蛛の巣がはってあってそれを払ってそこに入った。それをしたのをよく覚えていたんだね。
原爆は蜘蛛の巣すら払えなかったんだよ。(平成六年合宿)
(平成5年合宿研究授業『イメージの停滞からの脱出・イメージの再出発 時間・空間の拡大化とイマジネーションの転換 』にて。六年生の児童に対して)
*始めのお話
・・・「井の中の蛙」という諺知ってるでしょう。・・・人間というものはなかなか今住んでいる場所、今住んでいる時間、そういうものがなかなか分からない。そこから外に出た時に初めて分かる、というようなことなんですよね。
(『意識の転換』と板書)
意識を持っている、この意識が転換する。がらっと変わる。そういうのを『意識の転換』という。
今日の授業をやって意識の転換が出来る様になるかならないか・・・こういうことを今日はやってもらおうと思っている。・・・
おじさんの体でもって、おじさん自身が体験したことで、意識の転換を起こさないわけにはいかない事にぶつかったの。それを少しお話しますね。・・・
(原爆の体験談)
・・・おじさんは広島の駅へ向かいました。切符を買うために駅へ入る五〜六メートル手前でした。・・・この時にドンだね。そしておじさんは倒れたというよりも倒れなくちゃいけないと思って身体を防いだ。 ところがその時おじさんの意識は、日常君達が今、君達の意識が普通に働いていると思うけれども、普通の状態ではなくなった。逆上というのわかる?気分が逆上してしまう。あるいは興奮してしまう。上がってしまうわけだ。普通の状態でなくなってしまう。意識が。転換を起こし始める。
今、甲子園野球やっているね。初めて甲子園に行くとピッチャーが上がっちゃって、どこに投げていいのか分からないというような状態、時々起こす。・・・原爆でやられるんだから、当然逆上して訳分からないという状態になる。
・・・おじさんはもはや広島の駅に切符を買いに行ってるなんてケロッと忘れてしまっている。そしてそこが広島の駅前であるということも分からなくなった。なぜ分からなくなるかというとねそれは道が道でなくなる。道がつぶれたから。・・・建物は壊れてしまって、だから当然広島の駅はそこにあると思っても見えない。・・・今乗ってきた市電は既に倒れている。横になっている。そうすると大変なことが起こったということすらも分からない。人間というのは。
この場所が広島の駅前だという認識ができない。今君達は北東小学校のこの教室に今いると思っている。だけども次の瞬間に君達は「ここどこ?」ということが起こりうるんだよ。今、丁度四十一分。君達は四十二分にもここにこうしているって思ってるだろうけれども、今ここで原爆が一発、バンといったらここにいることすらわからなくなる。そういう体験をおじさんは持った。
もう一つ言っておこう。自分のとなり、見て御覧。その人は男の人であるか?女の人であるか?わかるだろ。原爆が一発落ちたら分からなくなっちゃう。・・・怪物の中にいるようなもんだよ。自分の顔だけ見られないから自分だけ人間の顔だと思っている。ところが回りはみんな怪物なんだね。そういう状態が起こった。だから、まとめるよ、最後に。
人間の意識はなんという頼りないものだろう、とおじさんは思った。ここが広島の駅前であるということすらもわからない。隣にいるのが男か女かそれすらもわからない。こんな状態になりうる。
人間の意識って何が本物なのだろう、とその時考えた。
今日、君達にはこれから『意識の転換』ということを勉強してもらう。じゃ、先生かわるからね。
もっと当時の様子を詳しく語っている記録もあるのですが、先生はよく
「人間っていうのはおろかなものだよ。だからさ、原爆がいかに恐ろしいかとか、どんなに悲惨だ、なんていうことを伝えたってだめだよ・・・。
それよりも伝えなければならないことは・・・・・」
この「・・・・」の部分を正確に記録したものがどこかへいってしまったのですが、たしか「そうした愚かな状況の中でも人間が失わなかったもの」というような話だったと思います。それであまり生々しい内容の話は今回は載せませんでした。
先生がその後日本人の無意識の世界を探り、子供の心の奥底にある「純粋な世界」を探る研究に進んでいったのも、そうしたことと決して無縁ではなかったのでしょう。
このワニワニ学級で目指していることが、この観点であることは所々でふれていますが、乱れた世の中で子供達もマイナス面ばかり表に出てしまう現代だからこそ、純粋な子供らしい姿を追求したページにしたいわけですし、その延長に「天体・ミクロ」もあるわけです。
「意識の転換」ということはわかりにくい内容ですが、簡単にいえば「マイナス思考」から「プラス思考」への移り換えを子供達に意識してもらう、ということなども表面的には含まれています。(本当は「かいまみの世界」というような、現世とは違う次元の世界観にハッとして生き様が根本的に転換していくというレベルの話です)
この授業では「今が絶対ではない」という事を原爆を通して語っていますが、それは決して「今の幸せが絶対ではないよ」ということが言いたいのではなく、たとえ現実的にはマイナスの状況の中でも、それだって「意識しだいで変わりうる」というのが子供達に伝えたい真意だったわけです。
(まだの方はぜひこの「生き方」コーナーの始めからご覧ください。
*H16,8,6追記
それよりも伝えなければならないことは・・・・・」という事の一つについて、先生の執筆した私小説ふうの小説「忘れ水物語」のあとがきにありました。
(丸木夫妻の原爆の図をみて)丸木氏が、木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねばならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。
・・・以後、馬歳を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。
しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残されねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった。
そんな時、ふと、巻頭に揚げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。
忘れぬる あしたの原の 忘れ水
行くかたしらぬ わがこころかな
・・・忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいんだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。・・・・・
*H21,8,6追記
人間の感覚なんていい加減よ。・・・原爆にあって、やっとの思いで防空壕へ歩いていったわけさ・・・そうしたら一人のおじいさんがいて、背中のところの服が燃えてるのよ・・・でもじいさんは火がついて燃えているのが分かんないで平然としているのね。だから僕が言ってやったのよ「じいさん、背中が燃えているよ」って。そしたらじいさんが僕の方をみながら「あんたもでっせ」って・・・。で、足を見たら僕の足にも火がついてて足が炭のようになってるの・・・。でも言われるまで火がついているのも全く気がつかなかった・・・・。
それで火を消してちょっとしたら、そのじいさんが小さな声で「いてっ」って言ったのね。それを聞いた瞬間僕にも痛覚がよみがえってきて、足に激痛を感じるようになった。(中略)
最後まで戻らなかったのが嗅覚ね。実家に戻って意識不明が続いて・・・意識が戻ってから何日かしたある日、ものすごく臭いのよ。何だろうこの匂いはと思っておふくろに聞いたら「今までこの匂いが分からなかったの!」ってビックリしてた。僕の体から出ている匂いだったのね。・・・
人間って不思議だよ。嗅覚がないと汚いものも汚いって感じなくなるんだから。
*盆だな
例えば『棚』っていうのは、ああいうのを棚って言うんだな、って風に覚えてしまった。言語を中心にして言語を教えるからそういう風になっちゃう。
児言態はそうじゃない。「何故そうなのか。我々の感覚がそうしているんだ。」ってな事を教えなくちゃならない。
今、お盆になるけど、お盆で一番大事なのは盆棚を作ることでしょう。何故盆棚を作るのか。そこに神様・仏様が来るから。盆棚めがけて。地べたには置かないんだ。中空に浮かんでいるもの、っていうのがあるんだね。日本人の霊魂は浮遊するんだね。そう言う事だってわかってくるわけ。だから、今、こんなことを子どもに教えなさい、って言っているんじゃないんだよ。
「言葉を教える事は、感覚を教えることだ」ってことに絞っておかなくちゃいけない、そういう話をしたの。 (平成四年合宿)
*日本人の霊魂観
・・・日本人は霊魂をどんな働きがあるものだとしているか、っていうことなんだけれども・・やっぱりキーワードとしていくつか言葉が選ばれてくるんですよね。
その中に一番大事な問題として、やっぱり『寄る』っていうのがあるんだよね。魂が寄り集まってくる。 ・・・今はぼつぼつお盆・・そうするとその霊魂の在り方を捉えていくときに「お盆は迎える」と言っている限りにおいては、日本人の霊魂は帰ってくる、とこう考えている、ってことになるでしょ。で、どこへ帰っていくかというと、元住んでいたところへ帰ってくると。
折口先生が、日本人の魂は浮遊するんだと、浮いて泳いでいると、こういう事を言われたけれども、その通りなんですね。それは『寄ってくる』わけです。『寄り付いてくる』わけです。・・・
それから『そろう』っていうのも問題なんだよね。『そろう』っていうのは霊魂観が元だと思う。魂が揃うんです。勢揃いをしなくちゃいけない。
だから『お盆』の時には家族達が皆集まってくる。出稼ぎに行ってる者も帰って来て、そして顔を合わせる。
『揃い踏み』なんてんだってそうだよね。「三役揃い踏み」・・魂がどんな風に活動しているか、っていうのを形の上で示していこうというんです。
駄菓子に『ふきよせ』っていうのがあるだろ。集める、ってね。・・・吹いたら散らばっちゃうじゃないか、って思うのに「吹いて」「寄せる」んだからね。
・・・丁度『お盆』だから、みんなそれぞれ先祖霊を持っているんだから。その先祖霊を自分でどれくらい自覚することが出来るか、っていうことです。薄気味悪いことになるかもしれないけれど『お盆』の行事なんて極めて薄気味悪いことをしているんだから。・・・ (平成二年合宿)
*意識の転換について
『お盆』っていうのは昔の人の知恵だね。・・人が亡くなって、我々のイメージが動かなくなっても『魂を迎える』ということでまた動かせるんだものね。
(平成七年七月例会)